

「雷を司る悪魔」とひと口に言っても、じつはその定義は伝統や文化ごとにかなり違うんです。
というのも、雷という現象そのものが、もともとは神の力として扱われやすい存在。空から落ちてきて、世界を揺らすほどの力ですから、どうしても「神サイド」に置かれがちなんですね。
そのため、雷が悪魔側に割り当てられるケースはやや限定的。主に、 西洋のグリモワール(魔術書)系の体系や、 各地の民間伝承に登場する気象系の悪霊
このあたりが中心になってきます。
雷の悪魔は、「神の雷」と対になる存在として後から整理されたケースが多いんです。
つまり、「最初から雷の悪魔がいた」というより、「雷=神の力」という構図が先にあって、それに対抗・補完する形で悪魔的存在が整理されていった、という流れですね。
このあとでは、そうした雷の悪魔たちを──
といった系統別に分けて、代表的な例を見ていきます。背景を知ると、「なるほど、だから悪魔なんだ」と納得できるはずですよ!
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フルフル(19世紀の挿絵)
ゴエティアに登場する「大伯爵」とされ、雷鳴や嵐を起こす力が語られる存在。
翼と角を持つ獣の姿で描かれ、荒天の象徴として視覚化されている。
出典:『Ill dict infernal furfur demon』-Photo by Louis Le Breton/Wikimedia Commons Public domain
ここで登場するのが、西洋のグリモワール(魔術書)にまとめられた悪魔たち。いわゆるソロモン系と呼ばれる体系ですね。
この世界観では、悪魔たちはそれぞれ「何を司る存在か」がかなりハッキリ決められていて、雷や嵐といった自然現象も、きっちり担当が割り振られています。
雷系の悪魔として、とくに名前が挙がりやすいのがフルフル(Furfur)です。
文献では「嵐・暴風・雷・稲妻を起こす」存在として説明されることが多く、まさに気象トラブル専門担当、という立ち位置。
ただし注意したいのは、フルフル自身が雷そのものというより、「雷をともなう嵐を引き起こす存在」として整理されている点。自然現象を人格化した、いかにもグリモワールらしい悪魔ですね。
もうひとり、雷と関係づけられる存在がアムドゥシアス(Amdusias / Amduscias)。
こちらは「雷(thunder)と関係し、嵐のときにその声が聞こえる」と説明される悪魔です。
雷鳴や嵐の音を、「悪魔の声」として捉えた発想がそのまま反映されている感じですね。空が荒れたときに響く音を、超自然的な存在の気配として感じ取っていたことがよくわかります。
グリモワール系の雷の悪魔は、自然現象を「役割」として割り当てられた存在です。
この系統の特徴は、とにかくカタログ的な整理のされ方にあります。
雷はこの悪魔、嵐はこの悪魔、という具合に「担当領域」を割り振る発想が強く、雷=○○の悪魔と整理されがちなんですね。
神話というより、分類表を読んでいる感覚に近いのが、このソロモン系の面白さでもあります!
こちらはグリモワールのように整理された体系ではなく、各地の暮らしの中から生まれた伝承がベースになっています。
雷や嵐は、恵みになることもあれば、畑を一瞬で壊滅させる脅威にもなる存在。そうした「制御できない天候」を説明するために生まれたのが、この“気象悪霊”タイプです。
代表的なのが、南スラヴ圏に伝わるアラ(またはハラ)(Ala / Hala)。
この存在は、雹(ひょう)を伴う雷雲を畑へ導く悪天候のデーモンとして語られています。雷鳴とともに雲が集まり、作物を容赦なく打ち壊す──農耕社会にとっては、まさに恐怖の象徴です。
特徴的なのは、その姿が地域ごとにかなり揺れている点。
蛇や竜のような姿で語られることもあれば、はっきりした形を持たず、黒い雲そのものや突風のかたまりのように描写されることもあります。姿が定まらないのも、実体のない嵐そのものを重ねているからなんですね。
このタイプの悪霊は、雷や雹を「人格化」して理解しようとした存在です。
雷が落ちた理由、雹が降った理由を「誰かの意思」として説明することで、人々は恐ろしい自然現象と向き合ってきた。アラは、その感情が形になった存在だと言えるでしょう。

嵐・雨・稲妻を象徴するバアルの石碑
古代ウガリト出土の浮彫で、バアル(ハダド)が武器として雷槍を掲げる。
嵐・雨・風・稲妻を司る神格が、雷雲の力を「手に持つ形」で表現されている。
出典:『Baal thunderbolt Louvre AO15775』-Photo by Jastrow/Wikimedia Commons Public domain
ここで押さえておきたいのが、「最初から悪魔だったわけじゃない」タイプの存在です。
時代や信仰の主役が変わることで、かつての神が別の立場から再解釈される──そんな流れの中で生まれたケースですね。
バアル(Baal)は、本来西セム系文化圏で信仰されていた、嵐・雨・風・稲妻に結びつく神格です。
雨をもたらし、大地を潤し、雷とともに力を示す存在。農耕社会にとっては、とても重要な神でした。
ところが、信仰体系が変わり、新しい宗教的枠組みが広がる中で、バアルは異教の神として位置づけ直され、やがて悪魔的存在として扱われるようになります。雷や嵐という荒々しい力も、その評価を後押しした要素でした。
バアルは「性質が変わった」のではなく、「見る側の立場が変わった」ことで悪魔扱いされるようになった存在です。
同じ雷と嵐の力でも、どの文化・宗教の視点で見るかによって、神にも悪魔にもなり得る──ここが、とても重要なポイントなんですね。
このような「神→悪魔化」は、宗教史・文化史の文脈で起こる現象です。
存在そのものが変質したというより、評価軸が切り替わった結果だと理解すると、全体像が見えやすくなります。

ここでは、「雷を直接起こす存在」というよりも、雷が生じる舞台そのもの──つまり空や大気を支配する立場として語られるケースを見ていきます。雷が空で起こる以上、「空を支配する存在」と雷が近い位置に置かれるのは、ある意味自然な流れなんですよね。
新約聖書に登場する表現で、「空中の権を持つ支配者」という言い回しがあります。
これをサタンを指すものとして解釈する流れがあり、そこから「空」「大気」「見えない領域」を司る存在、というイメージが形づくられていきました。
雷は空気の状態が激しく変化することで発生する現象。
そのため、「空を支配する存在」と「雷」が、概念的に近い場所に並べられることになるわけです。とはいえ、雷を落とす担当、というほど具体的な役割が与えられているわけではありません。
ここで語られているのは雷そのものではなく、「雷が生まれる領域」をめぐる支配の話です。
雷の悪魔、というよりは、空と大気をめぐる象徴的な立ち位置。少し抽象的ですが、雷を理解する文化的な背景としては、押さえておくと見え方が変わってきます。
あくまでこれは雷そのものの担当と明言されているわけではなく、「空・大気」という領域の解釈の話です。
雷と結びつくかどうかは、後世の読み取り方次第、という位置づけになります。

雷神図(尾形光琳)
江戸時代の画家・尾形光琳による「風神雷神図屏風」の左隻で、雷神を描いた作品
出典:Photo by Emuseum /Wikimedia Commons Public Domainより
ここまで「雷を司る悪魔」の話をしてきましたが、日本のケースはちょっと立ち位置が違います。
雷を司る存在としてよく知られている雷神は、悪魔ではなく、はっきりと神(カミ)として扱われてきました。
日本の雷神は、恐ろしい力を持つ存在ではありますが、それは「邪悪だから」ではありません。雷は雨を呼び、田畑を潤し、作物を育てる力でもある。だからこそ雷神は、畏れられつつも、同時に祈りの対象でもあったんですね。
怒らせると怖い。でも、恵みももたらしてくれる。
この二面性こそが、日本の神々らしい特徴です。雷神もその例外ではありません。
日本では、雷は悪と結びつく存在ではなく、自然の力を体現する神として受け止められてきました。
そのため、「雷=悪魔」という発想自体が、あまり根づかなかったわけです。雷神はあくまで自然の一部を司る存在。
敵でも怪物でもなく、向き合い、敬うべき相手だったんですね!
見ろやァ!世界中で雷をブチかましてんのは、オレみてぇな神だけじゃなく“悪魔”もいるってことよ!フルフルもアラも、みんなバリバリ派手に雷雨ふらせてやがるぜ。天も地もぶっ壊す覚悟があるヤツだけが、雷を握れるってことだ!
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